1999.10.1~12.26
元禄事件と熊本

 元禄十五年(1702)十二月十五日、旧主浅野長矩の意趣に報いるため本所松坂町の吉良邸に討ち入り、吉良上野介の級首を挙げて宿願を果たした赤穂浪士四十六名は、その夜のうちに大名四家にお預けとなった。
 細川家では、旅家老三宅藤兵衛を頭に大部隊を派遣して、大石内蔵助ら十七名を引き取り、芝屋敷に収容したが、そのなかに、浪士中最年長の堀部弥兵衛金丸がいた。元赤穂浅野家の江戸留守居役を勤め、討ち入りには養子安兵衛武庸と共に参加、準備計画の段階からその経験人柄を買われて、首領の大石をよく補佐したといわれている。
 この堀部弥兵衛の一類が、当の細川家中に出仕していた。彼等は浪士切腹直後まで遠慮謹慎を申し付けられている。
 討ち入り前夜の十二月十四日、弥兵衛はそれら熊本にいる堀部一族に遺書とも言える書状をしたためている。あとに残る妻子が流浪の身となるのでくれぐれもよろしくと切々と頼み、「品もなく活過ぎたりと思いしに、いまかちえたり老いのたのしさ」など狂歌三首を書き添えている。
 翌年二月、首領大石らとともに弥兵衛が見事に切腹し果てたのも、同じ細川家江戸屋敷。
 他の御預人も等しくそうであるが、将軍家の御膝元で世上を震撼させた討ち入りの張本人達でありながら、彼らの言動にはことさらの悲愴も誇示も悪びれたところもない。そのような彼らの態度は、事件への多様な反応や評価も含めて、元禄という時代の雰囲気の特徴的性格の一つであったのだろうか。
 詳細な日記や覚書、また書状類を残した弥兵衛、安兵衛に倣ったわけでもなかろうが、熊本堀部家の人々も代々筆まめであった。ことに貞享〜元禄期の記録には、職務や知行地支配から料理や年中行事に関する記録まであり、当時の地方武家の生活を知る上で興味深い資料も少なくない。とまれ、巷間名高い忠臣蔵事件が身近なものに見えてくることだけは確かであろう。(館長 島田真祐)